6/259時30分 柳瀬川駅前にお集りの皆さん
お寺は仏教で仏様、神社は神道で神様。伊勢神宮をはじめ、もとからあるのは神道、538年(諸説あり)に日本に来たのが仏教。蘇我氏と物部氏の対立は仏対神でもあった。この時、聖徳太子は仏教派。そのうち、神が仏教になりたい、神社の中に神宮寺というお寺ができる。八幡様は八幡宮で神社なのに、八幡大菩薩と言われるようになる。菩薩は仏。そして、明治になり1868年神仏判然令という法律ができ、仏と神はお別れした。でも、その間約1000年間、神と仏は同居していた、神仏習合。だから、「神も仏もない」とか「神様仏様三苫様」とか、今でも一緒に使われるのが日本の一つの文化です。 なんて、話を最初に聞きました。

出発。ペアモールを通り、二中と二小の間を抜け、校門を過ぎて通称サラリーマン坂へのカーブの左側に「大六天社」の標識があります。
欲界を支配する中の最強が第(大)六天。織田信長も信奉してたとか。それだけ、パワーのある神様です。志木市には、九つ大六天があり、多くが江戸時代からあります。人々の信仰の様子がうかがえます。しかし、力がある半面、負のパワーもあり「杉の木のたたり」という恐ろしい伝説もあるということでした。

次は大塚の交差点を通り、踏切を渡り左折、神明神社です。
神社には、ここから神域であるという結界を示す鳥居があるのが一般的です。鳥居は、大きく分けてシンプルな「神明鳥居」(しんめいとりい)と飾りのある「明神鳥居」(みょうじんとりい)に分けられます。神明神社は、もちろん神明鳥居ですが、左側に鎮座するお稲荷さんは明神鳥居なので、比較するには良い場所です。また、神社の屋根に角のように交差している部分を「千木」(ちぎ)といいます。千木と千木の間に何本か並行して並んでいる棒状のものを「鰹木」(かつおぎ)といいます。
千木と鰹木は伊勢神宮にならって、男神は鰹木が奇数、千木は断面が横に向いてる外そぎ 女神は鰹木が偶数、千木は断面がが上に向いてる内そぎが一般的なのですが・・・・・。ここは、、、、次行きましょう。

天照大神は女性なので内そぎですが鰹木は三本
道なりに戻って踏み切りを過ぎた左側に千手堂があります。
ここは、鎌倉末期から室町頃に創建されたと伝えられる歴史あるお寺です。かつては、このあたり一帯を敷地として大伽藍がそびえていたということです。ここの中をのぞくと、天井画が見えます。天女は、浅草の待乳山聖天を参考にされたそうです。入り口近くには、十三仏が安置しています。ここの墓地には、郷土志木を舞台に小説化され宮崎美子・大杉連で映画化もされた「武蔵野S町物語」の作者である永倉萬治さんのお墓もありました。


道なりに行って、ユリノキ通りを渡り、舘氷川神社に向かいます。この日は、スタッフを入れると25人越え、、交通安全には細心の注意を払って移動しました。
さて、舘氷川神社に到着、この日の午後「夏越しの大祓」があるので、鳥居には茅の輪がありました。
大宮の氷川神社を総本社とする氷川神社は、東京・埼玉を中心に約280社あると言われています。祭神は、ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトです。ここは、平安時代坂上田村麻呂が敵に囲まれ、大宮氷川神社に戦勝祈願、その結果実を鈴なりにしたムクノキを発見、これを食べてパワーアップした軍勢は見事賊を退散させたということです。その二代目は、社殿右側お札修め所にあります。社殿の左にある、修復記念碑も江戸時代の農民は苗字を持っていないという説を覆す資料として貴重です。そして、本日神社にお願いして、市の指定文化財である「図像板碑」を見せていただきました。全国的にも、類例が少ないそうです。

氷川神社の裏を抜けて、野火止用水跡の上を通り、行屋稲荷・不動へ向かいます。江戸時代の慶安年間、僧善海が不動明王を祀り、明治になり稲荷社が設立されました。もともと、宮原家が大事に守ってきたものですが、かつては「汗かき不動」という伝説もありご苦労があったようです。今でも、宮原氏が管理され、解説や行屋稲荷通信を発行されています。
また、市の指定文化財である「行屋稲荷の庚申塔」は地蔵信仰と庚申信仰が一緒になった珍しいものです。

今日のゴールは、長勝院跡。
チョーショーインハタザクラでも有名です。ソメイヨシノより少し後に咲きますが、季節になったら情報をチェックして見に来てください。
最後は、ここに伝わる和尚さんとタヌキのバトルを描いた伝説「長勝院のチョッピラリン」の紙芝居でした。

この隣の墓地には、市役所の入り口にあるモニュメント「空相」を作った関根伸夫さんのお墓もあります。「空相」は、美ヶ原高原美術館にも同じ物がありますので訪れた際はぜひ見てきてください。
7月は、紙芝居、次回のまち案内は9/17(日)寺社めぐりその2 本町地区 です。
お楽しみに!!
[報告・写真 高橋 豊]